きのうはクリスマスパーティに呼んでもらえて、楽しかった。撮ってもらった写真を見て、幼稚園児のころ仲がよかった体格のいいKくんのことを思い出した。正確にはKくんと一緒に写っている写真のことを思い出す。大人になったからといって子供のような嬉しさを感じられなくなるわけではない。じっさい、あまりに他愛もなくてすてきな時間だった。アルコールもほどほどに、おいしいものを食べて、プレゼント交換をし、黒ひげ危機一髪ではしゃぎ、犬の動画をにこにこ見ていた。いちばん大きな袋をもらえて、真っ赤なそれをほんとうに担いで帰った。終電だから家に着くのは二十五時だ。ルドンと一緒に階段に座り込んで待っていた奥さんはもちろんこう言う。サンタさんだ。
他愛もなく素朴な、ただの嬉しさ。それを手放さないでいることが案外難しいのだと思う。
昨年の春の自分のツイート。《小説というのはバカの味方なんだというような話を、いつか酔っ払った時に聞いた気がするが、もの考えるバカの営為を真に受けて、膨大な読書量と語彙を駆使してそこに体系や構造を打ち立てようとする批評は、気持ちいいくらい大バカではないか。知力を総動員してわざわざバカを目指すのだ。好き》。いいね、と思う。
小説も批評もなんか違うんだよな〜と感じる時、その内実は「賢明かつ堅実すぎる」というもので、「バカだねぇ」と笑うのが最大の賛辞なのだ。それは文章の読みやすさとか正しさとかでは測れない、ベットする先を盛大に間違えているような、それでいて真剣極まりない様子に楽しさをもらう。
「バカだねえ」が嬉しいのに、他人から賢いと思われたい人だと思われてしまうことで損なわれる楽しさがありそうだ。あるいは、じっさいに賢いと思われたくて楽しくなくなることもあるだろう。売れているものに文句を言いたくなる時、ほんとうは「賢明かつ堅実すぎる」ところがつまらないわけで、「バカがいい」と言えばいいのに、精確さの不足を指摘したりして売れ線をバカにすることで自分を賢い側に置こうとすると、楽しくない方のバカになっちゃう。
「バカにしやがって」みたいな暗さではなく、「バカだねぇ」の明るさのほうへ。やっぱり寅さんを見たほうがいいよね、とか、「点を線にしていく」というプロレスと批評に共通する強弁の技術についてなど、名古屋で青木さんとは相変わらずの話をより熟成した形でできるのではないかと思えてきた。
