2026.01.06

昨年の暑い頃に機械書房で買って、ざっと冒頭に目を通してあまりの面白さに満足して積んだままになっていた『エッフェル塔試論』を再開する。もうすっかり忘れているので頭から読み直す。エッフェル塔は、着工前からすでに毀誉褒貶の対象であった。しかし批判者も追随者も前提は共有していたとも言えて、つまりエッフェル塔は近代という鉄の時代、合理性の時代を象徴しているものであったと認識されていたいうのが通説だ。つまりエッフェル塔先進性に対する評価が分かれていたのであって、エッフェル塔が時代を先取りする前衛であることは自明とされてきたわけだ。しかし、松浦はエッフェル塔に託された石の時代から鉄の時代へというような単線的な進歩史観に疑義を挟む。なぜならエッフェル塔は石でないだけでなく、鋼でもないからである。同時代のアメリカにおいて、すでに鉄よりも加工の容易な鋼鉄技術が実用化されており、建築技術史上においたばあい、エッフェル塔は鋼ではないという明白なアナクロニズムを有している。ではなぜエッフェル塔は鋼ではないのか。それは、鋼は骨組みとして他の素材とともに壁をつくることで安定する素材であり、剥き出しの構造としては、横殴りの風に対して中折れする脆弱さがあるからである。エッフェルがあえて鋼という最先端の素材ではなく、アナクロな鉄を採用したのは、なによりも自身の架橋の経験によって身に染みた風による倒壊への怯えであっただろうと松浦は論を進めていく。

エッフェル塔は「機能」の「表象」である。何も表象しないでただ機能するのが「産業」や「進歩」や「有用性」であり、それらを統合する「機能」のイメージとして屹立する塔は、だからある意味で機能しないで表象だけする「芸術」と対立する性格をもっている。けれども、それでいてエッフェル塔自体は単に表象でしかないために、機能的でありながらその機能がなににも役立たない。ここに逆説の魅惑があるのだと論は進んでいくのだけれど、これはほとんど友田とんの話ではないかと驚く。そういえば『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する』のころ、友田さんはサインするさいエッフェル塔のイラストを添えていたではないか。

あるいは、エッフェル塔の《同語反復的な働き》から樫村愛子が『ネオリベラリズムの精神分析』で引くギデンズの再帰性のことを思い出してもいかもしれない——「活動条件についての情報を、その活動が何の活動であるかを常に検討し直し、評価し直すための手段として活用すること」。

樫村は、計算可能性を超えた不測の事態を受けて主体が柔軟に創造性を発揮するような「本来の再帰性」がもつ実質的合理性を、マクドナルドのような計算可能性の範囲内での形式的合理性を徹底させる「限定的な再帰性」と対置する。塔の建築を正当化しようとするエッフェルの思考は、じっさいのところ風対策という「限定的な再帰性」の計算可能性にしか向いていないのだが、その限定のあり方が近代資本主義経済の形式的合理性とは異なる形式にもとづいているがために、自己充足の解放系としての「本来の再帰性」めいてもいる。

元気が出る本だなあ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。