《木を見て森を見ぬ、ということがいわれるが、わたしはむしろ、ここで森も木も見ず、足下の草をわけて道を見出すことだけに、可能な限りつとめたい。もし、道がしかと見出されれば、そこに立って地平を定め、また木や森のありようを見定めるというそれに続くべき仕事は、比較的容易になされ得ると考えるからである》。木を見て森を見ぬ、ということがいわれるが、わたしはむしろ、ここで森も木も見ず、足下の草をわけて道を見出すことだけに、可能な限りつとめたい。坂部恵の『理性の不安』の導入部に書かれていて、この一文を今年の標語としたい、と強く思った。しかし、去年の年始からカントだなと思い、金に糸目をつけずカント本を買い集めたくせに特に下半期はほとんど読まないでいたのだけれど、『理性の不安』は古本で値札を見たら手書きで「12000円」とあってびっくりした。読まないと勿体ない! うかうか積んでいる間に復刊でもしたらたいへんだ。
たしか去年の今頃に読んでいた『霊的最前線に立て!』の流れでオカルトとカントの接続に興味が湧いて、それでまず『視霊者の夢』を読んだのだったが、これが存外面白く、本書を重視している研究者ということで坂部恵を知ったのだった。手に入りやすい入門書でもやはり『視霊者の夢』に大きく紙幅がとられていて、そこまで読んで批判期のところに進まないままこれも寝かせてあるのだけれど、いちばんよさそうなのが『理性の不安』で、どうしても読みたくなって日本の古本屋にリクエストを送り、夏ごろ入荷の連絡があり入手したのだろう。そのころにはカントから離れてしまっていたからまた今度と遠ざけてしまったのだけれど、やはり年始ということで改めてカントに気分が向いてきたようだ。はじめの章は、カントは常にアカデミアと社交界との両面に顔を向けており、学術の世界には市井の生活感覚を、日常生活には指針となる理論を持ち込もうと試みていたという記述がなされていくのだけれど、そうだった、社交をやろうと思い立ったのももとはといえばカントだったのだと思い出す。研究と交遊、抽象と具体、観念と生活。坂部によるカントの二義性に着目は、『視霊者の夢』への評価へと連なっていく。『視霊者の夢』は、カントがもっとも私的な書き方をした散文であるのだと坂部はいう。ルソーから引き継いだ自己告白の身振りで、形而上学者と視霊者が異なる床で見ているものが同じような夢であることを喝破する『視霊者の夢』の構造がもつ二義性について次のように評価する。
(…)ありのままの自己をさらけ出すことは、徹底的に素直たらんとしつつしかもたえず批判意識を働かせるという意味で、演技意識云々という時に指摘される事実に立ち入るまでもなく、それ自体すでにたえず二義性につきまとわれるという宿命を逃れられない。したがって、カントがあくまでつつみかくさず誠実であろうとし、またあくまで捉われることなく他者の視点をみずからのうちに取り入れ、他人の判断の前でみずからを正そうという姿勢をつらぬいたこの著作に、二義性がつきまとってはなれぬのは、いってみれば当然すぎるくらい当然なのであり、おそらくは、つきつめてみれば、この二義性が、夢というような今日にいえば「主体なき思考」の概念をみずからの表現手段として選び、また、意識に生涯後にも先にもない最大限の振幅と柔軟性を与えたのである。『視霊者の夢』がカントの著作中にあって、一つの高峰をなすゆえんが以上によってあきらかであろう。
坂部恵『理性の不安』(勁草書房)p.85
とにかく生活の実感から離れた理屈を捏ね繰り回しがちであるという点で、形而上学者と視霊者は同類である。『視霊者の夢』がパフォーマンスしてみせるのはそのようなことだ。なんとも僕好みの散文ではないか。坂部によるカントは、鹿爪らしく理屈先行であるというパプリックイメージに反して、むしろ人懐こい。というか、三批判書の執筆期間にこそますます社交的であったという事実を挙げて、理屈をこねくり回すのと、人と親しく交わることとは両輪でまわしていかなければ不健全なのだとまで示唆する、カントの《二義性》というスタンスを浮かび上がらせる坂部の記述に触発されて、書いてばっかいちゃだめだ、と決意したのだった。それで、社交に耽ってカントを読まなくなるのだから世話がないが。
