きのうの社交の名残が体に残っており、ほのかな憂鬱がある。ささこくんが
昨日はさめない社交楽しかったけど、浮かれて喋りすぎて酒鬱1
とツイートしており、じゃあいい夜にできたかなあと思う。楽しい日の翌日に特有の虚脱感や、はしゃいでしまったあとの反省みたいなもの、あったほうがいい。というか、ちゃんと内省へとかえっていく契機となるような緊張感やら節度みたいなものが薄く感知される場というのはいいものだろう。
ぎり話し合わない感じのやつがやってるポッドキャスト聞くのがいっちゃんおもろい2
シャーク鮫くんのこのツイートがさいきん気にかかっており、「はらっぱラジオ」の「vol.96~人に期待する~」を聴いたりしながら、話の合う合わないって何だろうなあ、と考える。自他の区別みたいな話はあまりピンと来ておらず、それはたぶん今の僕には幼稚すぎると感じられるからだけれど、社交をやるにあたってはこのへんについてもうすこし考えておいた方がいいのかもしれない。このへんというのは、人は人に勝手に何かを投影したり、思い込んだり、期待してしまうし、そういう状態にあると、人は人の話をまともに聞けない、自分の見ているようにしか見ることができないみたいなこと。
《ぎり話し合わない》くらいじゃないと、人は自分の見方からはみ出ることができないのかもしれない。であるならば、社交術とは話を合わせることではなく、《ぎり話し合わな》さを出力する調整なのではないか。
話が合う人と話してもしょうがないんだよな。だって奥さんという、もっとも話が合う人がいて、その人と十年以上をかけて共通の視座や語彙を練り上げてきたうえでお互いの固有性をあたりまえに尊重できるような関係を作ってきた人がおり、そういうのはそれで充分で、いま僕が求めているのは話の合わなさだからだ。同じよりも違いのほうが面白いし、同じものを見ていても見ているものがこんなにも異なるという驚きを欲望している。話が合わないなかでもうまくやれるという手応えを得たいし、そこでのやりとりを経ることで自明になってきて輪郭のぼんやりしてきた奥さんと僕というふたりの特異性が際立つという効能も期待できる。社交に同じだね、はいらない。違え~をくれ。そのほうが面白いから。
で、まったく異なる他人同士という自明さのうえで、酒の勢いや楽しい雰囲気にのせられて、ちょっと同じかも、という錯覚を抱く瞬間というのもとてもセクシーでいいものだ。たとえばささこくんの書いてくれた内省と憂鬱とは、冷静になったあとでの赤面のようなものかもしれず、それはちょっときのうセクシーが過ぎたかもという照れだろう。
合わないがふつうなのに、合ってしまう、合ったと思ってしまうということのよさを期待して社交に出かけて、合いすぎちゃったり合わなすぎたりすることに傷ついたりできる。あるいはちょうどいい《ぎり話し合わない》塩梅を見つけてすごく面白いのも最高。社交、もっと《ぎり話し合わない》人たくさん来てくれよな! ぜんぜん合わなくても、こっちから《ぎり》のところまではどうにかしていきたいとも思ってるよ。
