きのうの録音で男同士でお茶する問題について話してみて気がついたことだけれど、僕は人に話を聞いて欲しいとじつはあんまり思っていないのかもしれない。お互い好き勝手に話しっ放して、あー楽しかった何話したか覚えてないけど、となるのがいちばんいいおしゃべりだと捉えているから、情報の伝達よりもただ楽しいというのがなによりなのだ。説得よりも触発を重視しているということだろうか。ああそれで言うとさ、でどんどん話が転換していく脱線の愉快さだけでいい。目的のない自己享楽。ただ楽しい時間を一緒に過ごせて、その時間がなるべく持続するというのがいい。覚えていないし、相手の話をそのまま発展させているわけではないけれど、それでも楽しい時間を一緒に作ったということだけで充分であるという態度をこそたぶん僕はおしゃべりに求めていて、となるとじつはしゃべる必要もないのであり、あなたと一緒にいたい、ここにいてもいいというメッセージを発しているだけでもういいとも言えるかもしれない。じっさい僕は会った人と話したことどころか名前も顔もあまり覚えていられないけれど、ぼんやりとした好意みたいなものをだいたい全員に抱いており、いたなあとは思っているし、ちゃんといる時間を心地よくしようという意志さえ感じられればそのまま好意的に見ている。このようなぼんやりさは、話を真剣に聞いて欲しい、有益な情報として吟味して欲しいという欲望を持つ人たちからはかなり不誠実に映るだろう。じっさい、その場さえよければいい、とあっちもこっちも立てようとする僕の態度はしばしば不潔だと奥さんから評される。おしゃべりに自我はいらないというか、話していくうちに「私」は薄らいでいく。書くと濃く、強くなっていく。このような対比をこの日記で繰り返し書いているようなそこまで頻出してもいないような気がするが、とにかくおしゃべりは内省や自己陶冶の手段ではなく、誰かと一緒にいるという自己目的的な実践なのだ。明け渡すための自己は必要かもしれないが、そこまで重要ではない。しかし、自らの重要でなさを素直に受け入れてみんなでいるというのは、屈託ない自己肯定があってこそできることなのかもしれない。卓越性の表現でも、啓発の実現でもなく、ただそのままいることの過酷さについては、でも、僕個人としてはそこまで関心がないのかも。社交のそういう過酷さについては、おのおのちゃんと引き受けられるように鍛えていこうね、他人に承認を求めるなよ、お前がまず他人を歓待するんだ、というようなマッチョさは持っているのかもしれないし、いや持っているし、それでいいような気もしている。
夜、壊れてしまったカメラを新調したいのだがこの十年での値上がりがえぐく、十九万も持ってない!と叫んだところ、日常会話に「丸の内サディスティック」がさらっと登場することあるんだ、と奥さんが面白がった。
