2026.02.10

選挙の後はどうしても気分が塞ぐので、こういうときのための積みンドル(Kindleの積読のこと)を引っ張り出してきて立て続けに読むことにする。『話が通じない相手と話をする方法』、『〈私〉時代のデモクラシー』、『実験の民主主義』、『近代日本のナショナリズム』などを二割ずつ読み、『みんな政治でバカになる』と『論理的思考とは何か』の二冊は昼食を食べ終わるまでに通読できた。

『みんな政治でバカになる』は、認知バイアスと政治的無知という二重苦についての本だ。特に前者の認知バイアスについては、直感システムと推論システムの二重過程理論を発展させて主に認知バイアスを直観システムに対応させて記述していくのだが、直観を制御・訂正することを期待される推論システムの合理性は、自らが属する集団的プロジェクトの産物なのであり、それ自体「われわれ」と「あいつら」を対立させる性向をもってしまっている。文化やマナーは、感情だけでなく論理にも染み込んでいるのだ。このような内集団バイアスを打破する方法はありうるのだろうか。

論理的思考とは推論システムに属する遅くて慎重な思考であるが、その思考法そのものに文化的バイアスがかかっている。『論理的思考とは何か』では論理の領域は経済、政治、法、社会の四つあるのだとしたうえで、それぞれの内実をアメリカ、フランス、イラン、日本の作文教育を対応させて記述していく明快な構成をとる。経済≒アメリカの論理は、効率的に目的を達成を目的として、自己主張をする単線的パラグラフライティングをよしとする。公共の利益のために議論を尽くすことを目的とする政治≒フランスの論理は、弁証法的手続きを重視し、あらゆる可能性の吟味をよしとする。不変の規範の継承のためにある法≒イランの論理は論証を目的とせず真理を保持する円環性こそがよしとされる。社会≒日本は他者への共感と調和をこそ目的とする論理であり、時系列に沿ってぜんぶしゃべるような当事者の固有の事情に配慮したような作文こそがよしとされる。この四つの論理は、それぞれに目的も方法も異なるために、内在的な合理性が見落とされ、単に不合理でわけのわからないものとして感知されがちである。たとえば効率的に新奇な主張を達成することを追求する経済の論理からすれば、あらゆる可能性を吟味する政治の論理の迂遠さは愚かに見えるし、自明な前提が動かしがたいものとしてある法の論理はナンセンスだし、ぐだぐだと主観を述べる社会の論理はとうてい論理的とは感じられない。これはしかし適用エラーなのであって、採用する合理性が食い違っている。合理性とは、目的と手段ごとに異なるものなのだ。大事なのは、結論先行で効率的な実装なのか、あらゆる命題の論理を並べたてつねに変化のための問いを開いておくことなのか、不変で普遍な真理を循環的に再生産し保守していくことなのか、対立を避け場を調整する柔軟な利他の実践なのか。すべてをひとつの論理体系だけで記述しようとすることは避けたほうがいい。生まれ育った文化圏を学習し血肉化することでどのような論理をよしとするかという選好は直観システムにも根付いているからかなり難しいことではあるけれど、誰かが「バカ」に見えるとき、そもそもどんな論理に基づいて語られていることなのかを問い直してみるといいのだろうし、それは意識しないでもけっこうやっているような気もする。

帰り道で宇野本を古い方から読み、新しい方を三割くらい。だんだん気持ちが落ち着いてくる。そういえばさめない社交も前の選挙の憂鬱のなかで始まったのだったな、公私のはざまのしょぼい公共を粛々とつくっていくほかないやね、と改めて思う。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。