2026.02.16

ポルトガル生まれのキリシタン通詞ジョアン・ロドリゲス(一五六一〜一六〇八)の文法書『日本大字典』(一六〇四〜一六〇八)を引いている箇所が面白い。孫引きする。

まず、音読みされる漢語が「コエ」、訓読みされる和語が「ヨミ」と呼ばれているのが面白い。ここでのコエとは、異国の音の再現であって、話し言葉ではないのだ。ヨミこそが話し言葉である。

こういう話を読んで思い出すのは荒川修作のドキュメンタリーで、荒川修作は明らかに書かれた言葉のような言葉で話すのだなと強烈な印象が残っている。まさに〈日常の会話で文章体を用いるようなことがあれば、その大部分はどのような人にも理解可能であるが、やはり滑稽なもの〉だった。さて、書き言葉には口語体と文語体があり、野村は平安時代までの文章表現は口語体つまり話し言葉を模した書き言葉であったとしたうえで、中世に書き言葉の標準形スタンダードとなった文語体とは〈文章で旧態を維持しようとする規範〉から成立したものであったという。つまり文語体とは、院政・鎌倉期から室町期にかけて起こったであろう話し言葉の急激な変化に対して、なんか俗っぽくてやだなどの理由で対応を拒絶する規範意識によって成立したものだというのである。近代の言文一致体とは書き言葉の口語体への回帰であるということだ。僕の日記を読んだある人が、もっと年上なのかと思っていましたと言っていたのだけれど、これはつまり僕の書き言葉に対する規範意識というものが旧態然としているということだろう。どちらかというとめちゃくちゃにやっているつもりでいるのだけれど、おそらくインターネットスラングが好きではない、という点でたしかに保守的なのかもしれない。というか、ネット言語は新規な書き言葉のスタイルとしての口語体であり、口語=話し言葉とは別物である。せっかくならふだんの喋っている話し言葉のようなヨミを取り入れたいと考えているから、そもそもネット言語の採用はあまり面白いと感じられないのだ。すでにもう広く受け入れられ使いこなされる文字列になっているものを使うのではない形で書きたい。流麗な文語体も、ミームと定型に塗れた口語体も退屈である。自分のこの体と生活にしっくり来るヨミとコエの調合の塩梅を探って毎日書いている。現在では、漢字の熟語のうちほとんどヨミのように馴染んでいる言葉も多いだろうし、流通しやすい書き言葉はヨミ偏重であるのかもしれない。だからこそ生硬な、いかめしい輸入概念にぎこちなく着られているような文章を書き続けたいと思うし、不細工なりの愛嬌のほうをこそ愛好したい。

二階のトイレが使えなくて久しいのだが、今日とうとう業者を呼んだ。おそらく外の配管の昨年と同じところが詰まっている。高圧洗浄での対処療法だけじゃなく、配管やら枡やらの交換も必要そうだ。わかっちゃいた。だからこそ先延ばしにしてしまったが、こりゃおおごとだなあ。奥さんとのコミュニケーションツールをSlack からDiscordに移管しようという計画が持ち上がり、張り切って絵文字やスタンプを量産すると、そういうことじゃないんじゃないか、と指摘が入る。チャンネル構成などはわりあいうまくいきそうだが、iPhoneの方に通知がうまくこない。パソコンをつけっぱなしにしているからなのではという仮説を立てたので、後で試す。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。