ポルトガル生まれのキリシタン通詞ジョアン・ロドリゲス(一五六一〜一六〇八)の文法書『日本大字典』(一六〇四〜一六〇八)を引いている箇所が面白い。孫引きする。
一般の日本語は、すべてのことに、シナおよび日本を意味する「ワ、カン」(Va、Can)又は「カン、ワ」(Can。Va)の二語によって示される二通りの語がある。その一つは「コエ」と呼ばれて、シナ語を意味する。他は「ヨミ」と呼ばれて、固有の日本語を意味する。かくして、(1)日本語は、「コエ」の混じない本来の純粋な「ヨミ」であるか、(2)「ヨミ」に少しく「コエ」の混じたもので、すべての人に通用するものであるか、(3)「コエ」の多量に混じたもので、やや荘重であり、日本人が普通には文書に用い、重々しい身分の者とか学者とかが談話に用いるところのものであるか、(4)純粋の「コエ」のみのもので、最も晦渋であり、坊主が仏典の上で使うところのものであるか、そのいづれかである。
野村剛史『日本語「標準形」の歴史 話し言葉・書き言葉・表記』(講談社選書メチエ)p.131-132
まず、音読みされる漢語が「コエ」、訓読みされる和語が「ヨミ」と呼ばれているのが面白い。ここでのコエとは、異国の音の再現であって、話し言葉ではないのだ。ヨミこそが話し言葉である。
このようにヨミとコエという二種類の語彙があるため、日本人には三種のことばがあることになる。その第一はヨミだけから成りコエのまったく混じていないもので、この地に生まれた本来のことばである。現在このことばは韻文と、Ghenji monogatari (源氏物語)、Ixe monogatari(伊勢物語)などのごとく、文体が優美・流麗な書物のみに用いられている。第二はコエだけのことばで、仏僧がそれぞれの宗派の書物[経]によって祈りを唱える時に用いるものである。第三はヨミとコエとが混じたことばで、文字を用いるようになっている現在では、これがこの王国の共通のことばとなっている。人びとが日常の会話で一般に用いるのもこのことばで、大半はヨミであるが、コエも若干まじっている。ただし文章体・説教・あらたまった会話ではコエが多数まじる。……
心得ておくべき第二点。日本人も中国の人びとも文書・書物・書簡を書く時に、話し言葉における普通の表現、平俗な会話体を用いることはないし、文章体で話すこともない。通常の会話体と文章体とはたがいに別なものであって、表現にしろ、時制・法を示す動詞の活用語尾にしろ、多種多様な小辞にしろ、たがいに大きく異なっており、中には文章体でしか用いられないものもあれば、日常の言葉遣いに限られるものもある。このため日常の会話体で文章を認めたり書物や物語を書いたりすれば滑稽なことになろうし、日常の会話で文章体を用いるようなことがあれば、その大部分はどのような人にも理解可能であるが、やはり滑稽なものとなろう。
同書 p.132-133
こういう話を読んで思い出すのは荒川修作のドキュメンタリーで、荒川修作は明らかに書かれた言葉のような言葉で話すのだなと強烈な印象が残っている。まさに〈日常の会話で文章体を用いるようなことがあれば、その大部分はどのような人にも理解可能であるが、やはり滑稽なもの〉だった。さて、書き言葉には口語体と文語体があり、野村は平安時代までの文章表現は口語体つまり話し言葉を模した書き言葉であったとしたうえで、中世に書き言葉の標準形となった文語体とは〈文章で旧態を維持しようとする規範〉から成立したものであったという。つまり文語体とは、院政・鎌倉期から室町期にかけて起こったであろう話し言葉の急激な変化に対して、なんか俗っぽくてやだなどの理由で対応を拒絶する規範意識によって成立したものだというのである。近代の言文一致体とは書き言葉の口語体への回帰であるということだ。僕の日記を読んだある人が、もっと年上なのかと思っていましたと言っていたのだけれど、これはつまり僕の書き言葉に対する規範意識というものが旧態然としているということだろう。どちらかというとめちゃくちゃにやっているつもりでいるのだけれど、おそらくインターネットスラングが好きではない、という点でたしかに保守的なのかもしれない。というか、ネット言語は新規な書き言葉のスタイルとしての口語体であり、口語=話し言葉とは別物である。せっかくならふだんの喋っている話し言葉のようなヨミを取り入れたいと考えているから、そもそもネット言語の採用はあまり面白いと感じられないのだ。すでにもう広く受け入れられ使いこなされる文字列になっているものを使うのではない形で書きたい。流麗な文語体も、ミームと定型に塗れた口語体も退屈である。自分のこの体と生活にしっくり来るヨミとコエの調合の塩梅を探って毎日書いている。現在では、漢字の熟語のうちほとんどヨミのように馴染んでいる言葉も多いだろうし、流通しやすい書き言葉はヨミ偏重であるのかもしれない。だからこそ生硬な、いかめしい輸入概念にぎこちなく着られているような文章を書き続けたいと思うし、不細工なりの愛嬌のほうをこそ愛好したい。
二階のトイレが使えなくて久しいのだが、今日とうとう業者を呼んだ。おそらく外の配管の昨年と同じところが詰まっている。高圧洗浄での対処療法だけじゃなく、配管やら枡やらの交換も必要そうだ。わかっちゃいた。だからこそ先延ばしにしてしまったが、こりゃおおごとだなあ。奥さんとのコミュニケーションツールをSlack からDiscordに移管しようという計画が持ち上がり、張り切って絵文字やスタンプを量産すると、そういうことじゃないんじゃないか、と指摘が入る。チャンネル構成などはわりあいうまくいきそうだが、iPhoneの方に通知がうまくこない。パソコンをつけっぱなしにしているからなのではという仮説を立てたので、後で試す。
