『重力の虹』を読み終え。先月のどこかから始めてだいたい一ヶ月くらいだろうか。楽しい時間だった。第三部まではこれのどこが難解なんだ? と思っていたけれど、第四部に入ってさっぱり付いていけなくなって、調子乗ってごめんなさい、と誰にともなく謝った。小説は独りで読むもの、というこだわりを捨てて、最後の二〇〇頁くらいはふくろうさんのWiki を参照しながら攻略していった。攻略していくというのが感覚としては近くて、ゲームは攻略本を参照しながら遊んでも何かがスポイルされるような感覚がないけれど、小説は僕は独りで格闘したい気持ちがあって、これはなんなのだろう。はじめて先陣を頼りにしながら読むということをしてみて、入門書から始める哲学思想なんかでは当たり前にやっていることだけれど僕はやはり小説でこれをやるのがどうもしっくりこない。やっぱり最後まで自分で行ってみるべきだったろうか。巻末の解説は読まずに済ませる。ラストの爽快さったらなかった。重力として描かれるシステムを動かす黒幕として、この本では戦争によってすら分断されずグローバルに活動する企業が置かれているけれど、この無意味な戦争によって無数の人生が雑に蹂躙されながらも平然と経済を回していく全貌の見えない官僚的機構というイメージは、疫病と運動会によって今また了解しやすくなっている。重力に逆らって越境を試み無惨にも四散していく愚かな豚として僕は小説に挑むのかもしれない。だからこそ、インターネットに散逸する知を拾い集め、他者の解釈や感想を自分のもののように錯覚するような読み方は、あまりに〈かれら〉的に感じてしまう。あらゆるものを分類し、それぞれに不可侵の領野を与え、全体として矛盾のないように機能するように配置するという〈かれら〉の近代的態度に抗するような小説に対して、それこそ近代的知の象徴である「百科事典」の喩えで読解されてしまうことの皮肉を思う。──お気づきの方も多いだろうが、僕は読まずに済ませたと言いつつ、ちょっと解説を齧ってしまったしだいぶそれを意識して書かされている感じがあって鬱陶しい。
『重力の虹』と併読したのは漫画が多かった。それこそ逆側からのアプローチのように『チ。』を読んだり、『映画大好きポンポさん』を3巻まで読んで映画っていいなあと嬉しくなったりしていた。一番のお気に入りは黒崎冬子『無敵の未来大作戦』で、僕は社会性を身につけた『黒のもんもん組』だと思っている。