2021.09.12(2-p.150)

「喉に痛みとも痒みとも違う、なんだか妙な違和感がある」と日記に書いたら奥さんはそれヒステリー球じゃないの、と言う。奥さんは普段は梅核気と呼ぶことの多いそれは半夏厚朴湯という漢方が効く。奥さんはよく助けられている。服むとすっと違和感が消えてすごい。僕は東洋医学はプラグマティックに捉えていて、効いてしまうのだから仕方がない。千年とかそれ以上の実証実験のなかで効果が認められていて、その物質的説明がつきづらいからといってここではその蓄積の厚みのほうが説得的だ。また、そういう経験の蓄積を一年とかに圧縮して新しいワクチンとか作ってしまう西洋的な医学もその圧縮の技法の洗練の蓄積があるわけで、抽象化の力を感じる。具体的な経験と抽象化した一般法則は、両輪あるからいいわけで、どちらかを原理主義的に信奉するのも、排斥するのもなんか違う。おかげでぐっすり眠れた。

今日は元気が有り余っていて家の中にいると事故を起こしそうだった。調整のため腕立てやプランクなどを激しめに行うが一向に収まらない。奥さんが豆花を食べたいと言うので行こう行こうと出掛けていった。電車の中では今週の「だえん問答」。そこで紹介されていたもてスリムさんの帰宅論が面白かった。

非日常的な旅のみならず、わたしたちの日々の生活もまた、少なからず帰宅によってその輪郭がつくられているはずだ。多くの人にとって、帰宅は一日のなかで大きな区切りの役割を果たしている。特に毎日オフィスへ通って働いている人々は、帰ることでパブリックな空間からプライヴェートな空間へ入っていくと感じることも多いだろう。歓楽街や住宅地といった町並みもまた、人々の帰宅がなければいまのような姿をしていないだろう。多くの宴会も、人々が帰らなければならないからこそ終わりを迎える。「Zoom飲み」が終わらないのは、誰も帰らないし帰れないからだ。終電や終バスといった公共交通インフラも、帰宅とともにある。
(…)
誰もが、家には帰るのだ。出発が無数の発散性をもっているのに対し、帰宅は発散しえず、誰もが家なる場所に帰っていくことが決まっている。これは粗雑な印象論にすぎないが、特に大都市圏で暮らす人々にとって、家とは帰る終着点であって、出発点ではない。come homeもgo homeも、家に帰ることを意味している。どうやらわたしたちの生活と「帰宅」は、独特の関係性を結んでいるのかもしれない。家や住宅というと、一般的にはそこで人々がどのように暮らすか、あるいはどのようにその場所をつくり上げるのかに焦点が当たりがちだが、帰宅を考えることで家や都市の異なった姿が見えてくるかもしれない。

石神俊大「帰宅論序説:「帰ること」をめぐる6つの断章」https://wired.jp/special/2020/homecoming-ology/

そうか、僕は家にいるのが大好きだと思っていたが、そうではなく家に帰るのが好きだったのかもしれない。最近は家にいても「帰りたい」と思う。片付いていないし煩わしい雑務も絶えない家にくつろぎを感じられなくなっている。もしかしたら僕は、もともと今の家をそんなに好きじゃない。それでも、そんな家よりも居心地が必ずしも良くない外で、「帰りたい」と家を懐かしむことで家でゴロゴロすることを好きでいられたのかもしれない。帰宅、それが欠けているのかもしれない。そんなことを考えて、今朝の駄々っ子のように家にいたくない出かけたいデートしようよウワアア!と大騒ぎしていた自分の奇態に納得するような気持ちになった。帰りたかったんだね、僕は。

淡路町の東京豆花工房でテイクアウトして、すぐそばの公園で空模様を気にしながら美味しく食べた。前に食べたのはみつ豆みたいでちょっと重たかったし甘すぎたのだけどここのはとてもあっさりつるっと食べれて毎朝食べたい感じだった。美味しいねえ、と二人は満足し、けれども満腹ではなかったし、しょっぱいものも食べたかった。調べると秋葉原に中華料理というか、中国のストリートのご飯が食べられるお店があってそこを目指した。MOOGA という店で、入ると店員さんに容赦無く中国語で話しかけられたから本場っぽくてわくわくしたが、日本語でこういうこと? と訊き返すと日本語で返してくれたから間違えたらしい。確かに店内は日本語ネイティブと中国語ネイティブが半々くらいで、僕は髪型もメガネも今日の服装もたしかに大陸っぽさがあった。こちらも全部美味しかった。ビャンビャン麺とバーガーとおこわみたいなやつ。それで外出の目的は済んだので帰ろうかねえ、と秋葉原を歩いていると、僕はふと、宝探しがしたい、と言った。ロメロやジャームッシュの配信のない映画の円盤をユーズドショップでディグりたい、という意味だったが、奥さんがいいね! と目を輝かせたのはおそらく謎解きゲームとかやりたい、という意味に捉えられたのだろうと思う。そうじゃなくて、トレーダーとか行きたい、と説明すると平熱に戻ったがそれはそれで付き合ってくれるとのことでトレーダーの本店でDVD を見て、場所柄アニメが充実していて映画はそこそこだった、奥さんは『ビーストウォーズ』のBOX を探していてなかった。売り場は四階で、帰りは階段にすることにして三階はフィギュアコーナーだった。なんとなしに眺めているとネロちゃまのフィギュアがある! か、可愛い……ッ! お宝じゃん、お宝の山じゃん、えっこっちもネロちゃま、あっちもネロちゃまだ。うわあ、どうしよう、沢山ある……、僕は胸がドキドキして息も絶え絶えだった。推しが、形が、立体で、モノとして、アァ……

語彙をすっかり失った僕を連れて奥さんは店を出る。なぜかレーシングの格好をしたネロちゃまが一番顔が可愛いのだけどレーシングである必然性がわからず購入は躊躇われた。赤い皇帝衣装のネロちゃまがいい、と思い往来でぶつかりそうになりながら僕はiPhoneでのリサーチに夢中で手を引く奥さんは二人分の気を遣いながら人通りの少ない場所まで木偶の棒を運んでいく。僕は、ここにならありそう! と別のお店の目星をつけて、来た道を少し引き返し、別の中古フィギュア屋さんに向かった。エレベーター待ちの行列を避けて階段で三階まで上がる。ここはfate シリーズでがっつりコーナーがあるらしい。入って左手に赤と金の気配を感じて、気がついたら奥さんを置いて僕はすごい早足でそこに向かっていた。あった!さっきのレーシング衣装のと同じメーカーの赤ネロちゃまだ。三個もある! え、待って、この壁面、全部ネロちゃまだ! ア、アァ……

また語彙を失い、レーシング衣装の方がやっぱり顔は好みで、赤ネロちゃまも三個あることで今日買わなくても大丈夫そうという油断が生まれている。同じメーカーで顔の付け替えもできそうだから、買うなら両方だ。そんな予算はない。今月はセットアップも眼鏡も買った。もうたくさん。ネロちゃまは待ってくれる、待ってくれるよね……? あとお迎えするには部屋を片してスペースも作らなくちゃいけないし、今日じゃない、今日ではない、しかし、なんてことだ、推しが、具現化、モノとして形を取るだけで、こんなにも素敵なのか。すごいな、すごいな!フィギュア!

興奮しすぎてどっと疲れたので大人しく帰宅。帰りの電車で相場を調べていたら駿河屋がタイムセールで今日中に買えばかなりお得に買えてしまう。買うのか、いやいや、今月は節制だ、近々ピックアップに来るだろうなぎこさんも引かなくてはいけないし……

そうして帰宅し、Twitterなどをして大人しく遊び、お風呂入ってご飯を食べて日記を書いているうちにまたネロちゃまへの熱が高まってきている、買っちゃうのか、買ってしまうのか⁉︎ いやしかし、買ってどうするというのだ。けれども、モノとして持ちたいというのはそれこそ本は紙で買うというのと同じ欲望ではないか。本は読めるがそれがどうした、読むだけでいいのなら電子でいい。しかし書かれた内容と同じくらいもしくはそれ以上にモノとしてあることに意味があるのだ。『映画という《物体X》』を想起すれば分かる。僕は本を唯物論的に愛でている。それであれば、推しをモノとしてそばにおきたいという欲望だって、それだけで十分すぎるものではないか。使えるかどうか、読むかどうか、じゃない。モノとして魅力があるならば所有したい、それだけのことなのだ。僕は本を買うのを我慢したことがあるか? いや、ない。家賃を差し引いたら月四万とかで生活していた学生のころだって食費を一万円以下に抑えてあとは本にしていたのだ。どうしようもない時は交際すら断って本を買ったのだ。推しのフィギュアだってそういうものではないのか。どうだ!

──ここまで書くと流石に冷静になってくる。もう少し考えよう。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。