2121.09.13(2-p.150)

『現代思想からの動物論』は自分にだいぶ負荷をかけながら読んでいるところがあって、全く自分にない回路を使って思考の筋道を追っていく、だんだんと掴めてきてもやはりそこまで苛烈には突き詰められそうにないと途方もない気持ちになる。そうやって二時間かけてやっと二〇ページとかそういう読み方をしている。人文書って感じだぜえ。楽しいなあ。

とはいえ何かほかにも読みたくなるもので、小島信夫『美濃』を手に取った。軽く合間に挟むつもりで読み出したらやっぱり面白くて止まらなくなってしまう。凄みのある奔放さにニコニコする。僕の日記の書き方は小島信夫の到底及ばないモノマネのようなところがある。

もちろん私は小説家であることには違いないので、その前後に彼らが何をいい、その音質は音楽でいうとどのようになり、それからその表情はどのように、ダーウィンの『動物及び人間の表情について』の中の何頁に記されていることに合致するようであり、それから、骨格はどうであり、両脚の長さはほんとに同じであるかどうかとか、第何脊椎に彎曲があり、何よりそれは腰からきており、それが突起と彎曲とを身体の中程でもたらし、その影響ははるか上の方の頸骨に決定的にあらわれ、それは座席にすわるときにかならず居心地わるく感じさせ、文句は椅子に向って放っているのであろうとか、そのほか、その日に彼らの身に何かあったらしいとか、これから何が起るとか、来年あたりはどうなるであろうとか、あと何十年ぐらい生きるだろうとか、性生活の模様とか、タンパク質の摂取量とか、血圧のぐあいとか、私が死んだとき私のことを何というだろうとか、そもそも各務原にきてからどのくらいになるであろうとか、その先祖と水害との関係など、要するに、どれだけそしらぬ顔をしていようとも、岐阜の人間であるという証拠は、そのとくに顔の鼻のあたり、口もとにいちじるしい。それに、どれだけまったく無関係だという顔をしたとしても、どう見たってわが郷里のナマリがまるまるあらわれている。

小島信夫『美濃』(平凡社) p.72

僕はこういうふうに文章が書きたい、本当はさらに歳を食ってからのどこまで作為か本当にわからなくなる境地でこそ文章を書きたいのだがじっさいに前頭葉の萎縮しないうちからそのような書き方をするとなんだかいやらしい、わざとらしい感じが強くなりすぎる感じもあって、むしろ利発な好青年であることを誇示するようになる。要するに、どれだけそしらぬ顔をしていようとも、小島信夫を読む人間であるという証拠は、そのとくに句読点のあたり、一文の粘りのつけ方にいちじるしい。しかし、どれだけ影響下にあるような顔をしたとしても、どう見たって誰も小島信夫のようには書けない。

われわれは小島信夫に憧れて書くしかないのであって、小島信夫のように書くことはできない。小島信夫のように書くということは小島信夫になるということであって、そうしてみると誰も小島信夫ではないということになる。こんなことを書くとあなたはちょっとわざとらしすぎるなあと鼻白むようだろうが、しかしまあ聞いてください。僕は小島信夫を読むと元気になるんです。元気になるということは何ものなのかもしれない。しかしそうでなかったとしても、それはそれで一向に構わない。

私も彼はなかなかいい顔(どんな?)をしていると思っていたが、私が思っていた以上であるかもしれない。その後、私は彼を先ず見るときに、岐阜的であるというよりも、やはりいい顔といわれる顔をしているかどうかをしらべている自分を見出すのである。だから岐阜のみなさんは、そして東京や日本中の私のことに多少関心を抱いている人々よ、私が彼を何かしら重要人物として名をあげるのは、私が彼を特別に岐阜の代表的人物とみなされるにふさわしいと考えているからではないことが、分ってもらえると思う。いい顔をしているから私が好んでいるというわけでは勿論ない。次第にそういうことは分ってもらえるように書き進めることになると思う。じっさいには岐阜では代表的人物であるかもしれぬし、本人もそう思っているかもしれない。たとえそうであっても、たまたまそうであるだけのことで、私には何の関係もないことだ。それより彼が柳ヶ瀬から各務原へ行き、まっすぐ行けば琴塚や関市を通って美濃市へと行く途中の街道沿いに彼の家があり、そこに彼の書斎があり、そこで私が泊り、街道の前には山があり、その山はずっと岐阜に山ぎわという場所をつくっていることの方が何ものなのかもしれない。
私は何を書いてきて貴重な紙面をついやしたのだろう。何だか二番煎じの気がする。すこしも展開がないし、すべて言い訳ではないか。それに、どうして自分自身が以前に書いたことをなぞり、こだわるのだ? 何だか「文体」くさいし、それに方法くさいではないか。私はつい先だってまでは、さまざまな理由で、賢作を苦しめているような気がしていたが、私はいま彼以外の人人を苦しめているのではないかという思いにさいなまれる。

同書 p.74-75

これほど何が語られているかを気にせずただリテラルに積み重なっていく文字の楽しさを楽しめる小説はなかなかない。小説は意味である前に具体的な質量なのだと納得できそうになる。過去は変奏され、変形し、変容していく。現在とはそうした生成の途中に他ならないし、未来もそうした堆積のなかにしか見出せない。僕は人が文字だけでこんなことをやってのけてしまうことに何度だって感嘆する。

今日僕は書く気がしなくってとにかく目についたページを適当に引き写してきただけなのだが小島信夫を読む時はほんとうは全文引き写したい。どこを抜粋しても面白いのだがどこを抜粋しても仕方がないのは、やはりそれが堆積であるからこそのものだからだ。長々と大事そうに積み上げたものが一文であっけなく霧散する驚き、かと思えばささやかな細部が執拗に何度も様子を変えて反復される粘っこさ。そうしたものは全部読まないことには感受できないものではないか。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。